音楽業界での3年間の挑戦と挫折|夢を追い続けた私のリアル体験談

 

みなさんは、これまでの人生で「挫折」を経験したことがありますか❓

夢を追いかける中で壁にぶつかり、悔しさや絶望を味わったことのある人も多いでしょう。

 

実は今の私も、過去に「心が砕けそうになるほどの挫折」を経験しました。

人には打ち明けにくいほどの、辛く苦しい日々…。

 

けれど今、振り返ると、その経験すらも私の人生を形づくる大切な糧になっています🌈

今日は、音楽芸能の世界で体験した「挫折」と「そこから得た光」を綴ります。

 

🌺音楽芸能との出逢い

 

2008年。

偶然見た「和と洋が融合した舞台ショー」に衝撃を受けました。

 

『この世界で一生を生きてみたい‼️』という強い気持ちにかられ、

 

その思いに突き動かされ、翌日には団体に直接連絡。すぐに入団が決まりました。

 

高校時代にクラリネットを吹いていた経験もあり、音楽が大好きだった私。

弟子入りからスタートしましたが、必須の津軽三味線や和太鼓を驚くほど早く習得し、わずか数ヶ月でレギュラーに抜擢されました。

 

当時20名ほどいた弟子の中でレギュラーはわずか4人。

 

その一員に選ばれた私は、夢の舞台への一歩を踏み出したのです。

 

 

レギュラーの中で一番、年齢が若かったこともあり、団の厳しい決まりに対して素直にどんなことも受け入れました。

 

 

🌺 下積み生活

厳しい修行生活の始まり

 

 住み込みでの生活は想像を超える厳しさでした。

 

毎朝、誰よりも早く起きて稽古場の雑巾がけ。

お茶汲みや家事はもちろん、食事はみんなより一番最後。

練習の合間の休憩では、大師匠、師匠、そして先輩たちが椅子に座りますが、下っぱの私は椅子座ることはできず、一人だけ床に正座が当たり前。

 

夜は先輩たちの肩もみや身の回りのお世話。

 

お風呂は3日に一度で、自分の時間などほとんどありません。

寝床は事務所のソファー。お給料はゼロ。

寝不足のまま夜が明けていく毎日。

 

住み込み場近くの街並み
住み込み場近くの街並み

 

さらに団の掟として、絶対恋愛禁止。

なんだかどこかのアイドルのようですよね(笑)💦

ステージ会場のスタッフ男性と話すことも禁じられていました。

よく師匠から言われていた言葉は、

 

【自分を捨てろ】

 

生まれもった名前の私ではなく、芸名の私として生きること。プロとしての人格を築いてほしかったのだと思います。

「自分に甘さをだすな、そのために家族とも縁を切れ!」とも言われていました。

 

携帯はメール内容を随時、チェックされる毎日。プライバシーという感覚すらもその時は言えない環境でした。

 

それでも私は「もっと貢献したい」「もっと活躍したい」と思っていました。

夢の舞台に立てる喜びのほうが、何よりも勝っていたからです。

 

 

初めてのファンとの出逢い

  

レギュラー昇格後、すぐに1ヶ月間の連続公演がスタート。

 

昼と夜の1日2回公演、休みなしの舞台は大変でしたが、舞台に立てる喜びでいっぱいでした。

 

 そんなある日、客席から声が飛びました。

 

「○○ちゃん(芸名)!がんばれー!」

 

それは、私を応援してくれる「ファン」の存在。

涙があふれるほどの感動と感謝に包まれました。

 

その瞬間、私の音楽に対する情熱はさらに燃え上がっていきました。

 

 

先輩からのいじめ

 

 しかし光が強ければ影も濃くなる。

レギュラー入りして間もなく、先輩からのいじめが始まりました。

 

「死ね!」という暴言。

ステージ裏での暴力。

私の楽器を投げつけられることもありました。

 

さらに、ありもしない噂を流され、ご飯を抜かれることも…。

若さと勢いに嫉妬されていたのだと思います。

 

それでも私は、舞台の幕が上がれば笑顔で演奏し続けました。

ファンや家族の存在が、私のボロボロの心を支えてくれたのです。

 

それでも、どんなに悔しくても泣いても孤独でも、歯を食いしばりながら、ステージの幕が上がると、笑顔で音楽演奏を勤めていました。

 

 

🌺 覚醒の時

家族の支えと決意

 

ステージでは多くのファンの方々、私の家族、大切な友達や知り合いがいつも応援しに来てくれていました。

その人たち一人一人のおかげでボロボロに崩れかけていた私の心が支えられていました。

 

 本当に感謝してもしきれません。その中でも、家族の応援は私にとって特別だったと思います。

 ステージに立ってると、控えめな性格の父が席にも座らずにいつも一番、後ろの方で立って見守ってくれているのが見えました。

 

 父なりの応援の仕方・・・

 ステージからはあまりに遠くて、かすかに見えるその父の姿をみる度に、【よしっ、頑張らなくっちゃ!】と胸が熱くなったこともありました。

 

 3つ下の妹はステージが終わって逢えた時、私の顔を見ると号泣して泣きじゃくっていたこともありました。

 

 きっと、私が突然、音楽芸能の世界に入り、それまでいつも一緒にいたのに、なかなか会えなくなって寂しかったのだと思います。どんな時も私への想いが伝わってきて本当に嬉しかった。

 

 ここまで辿り着いた夢の舞台なんだから、しっかりしなきゃ!と姉心が芽生え、自身を奮い立たせたこともありました。

 

 

 

そして、誰よりも一番、熱く応援してくれていたのは母だったと思います。

毎回、ステージがあると必ずたくさんの差し入れをもって見にきてくれました。よく差し入れしてくれていたわさび入りの稲荷寿司は私にとって思い出の味です。

 

もちろん差し入れは、大師匠、師匠や先輩たちから食べ、私は余っていたら頂くという感じでしたが、母の差し入れがあると、みんな機嫌が良くなるので自分の分がなくても平気でした。

 

ステージの前後 母は差し入れに来てくれた
ステージの前後 母は差し入れに来てくれた

 

大きな大きな垂れ幕を手作りし、客席から応援してくれた母。

私の服を届けに住み込み場に持って来てくれた時も、『痩せたねぇ‥‥』そう言って渡してくれた袋の中には母の想いが込められていたのです。

 

あとで袋の中を見てみると、その服と服との間には、お金の入った封筒とお菓子(ピーナッツ入りのチョコやバナナのカステラ)がコッソリ隠すようにして入れてくれていたのでした。

それもすぐにレギュラー先輩たちに見つかり、取られてしまいましたが…💦(ごめんなさい…お母さん)

 

 

追い詰められた時、殻を破れる

 

心にあった確かなこと。


【音楽でレギュラー先輩全員を越えてみせる】という決意。


ここから、さらに私の人生をかけての【本気】の火が灯ります。

 

先輩たちからの暴言を避けるため、できるだけウォークマンで耳をふさぎ、家事や雑用、お茶汲み、全ての雑用や、やることを淡々とこなし、孤独と悔しさを音楽練習にぶつけました。

 

当時、手にできたマメの写真
当時、手にできたマメ

 

毎朝、日が昇る頃に薄明かりの練習場の床掃除が終わると、正座をして、その太陽の光に手を合わせ、

ここでの音楽ができることに感謝し、見守ってくれているご先祖さまの存在にも感謝し、心の内を整えていました。

厳しい環境だけれど、どんなに辛くても、ステージに立つと、師匠をはじめ先輩たちの才能、一流の音楽をするこの一座のことを心から尊敬していました。

 

 

そんな日々の中、技術はグングンと成長していきました。必須楽器の演奏の他に、私にしかできない担当がありました。

 

 

それはアルト・サックスでした。

 

高校時代のクラリネットの経験を活かして独学でサックスを始め、ステージで披露していました。

サックスはインパクトがあり、迫力もあってカッコイイ!と思われる楽器です。

いつの日か団にとっては必要な楽器となっていました。

 

 【経験が無いからできない】はありえない状況。

 なんとしても吹かなければ‥‥。

 

 

容赦なく、レギュラー先輩から『明日のステージでこれ吹いてもらうから!』と、ポンと突然言われ、まるでステージに放り投げられるような感覚‥‥

そんな時は、徹夜で何度も何度も練習して、一か八かでの本番!といったことも日常茶飯事。

 

心の奥で神様に何度、助けを求め、祈ったことか‥‥

 

そんな状況もなんだかんだで、いつもなんとかなっていたのが不思議でした。

 

人は追い詰められるとこんなにも力を発揮するのか‥‥

 

 

 

そんな日々を重ねていくうちに、最初は技術が乏しく、レギュラーからいつもバカにされ厳しく叱られていましたが、いつの間にか、ステージショーではメインの場をもらうようになっていきました。

 

大きなステージで、冒頭からの旋律を任されたりするようになり、次第にご依頼主、主催者様からも『あのサックスの子、次の時も宜しく』と団に連絡が入るようになってきたのです。

 

こうなると、レギュラー人も少しずつ私の存在を認めてくれるようになっていきました。

バチバチとしたものは相変わらずありましたが、存在をバカにするような言動はなくなっていきました。

 


 このままやっていけるなぁ・・・


 そんな風に思い始めた頃、転機がやってきます。それは師匠のお母さん、大師匠のある言葉でした。

 

 

🌺 退団までの経緯

大師匠からの言葉

 

94才ほどにもなる大師匠はいつもレギュラーと共にいました。

練習場には必ず椅子に座って黙ってじっーと見ている方でした。

たまに津軽三味線を渡すと、ゆっくりと弾いて下さる、そんな方。

 

 私が身の回りことをお世話させて頂く時も常に口数は少なく、周りからは少しボケてきているのでは?とそんな風に思われていました。

 ある時、いつものようにその大師匠のお世話をしている時のことです。

 

 部屋にはその大師匠と私二人っきり。

お世話が終わって、ほっと一息した時でした。

 

 

 普段、ほとんどしゃべらない大師匠がいきなりこんなことを言い出しました。

 

 『芸は身を助ける不幸せ・・・』と。

 

いきなりすぎて、私は【ん?】と、その時は意味が分かりませんでした。

その言葉のあと、また一点を見つめたまま黙ってしまった大師匠・・・。

 

さっきの言葉は、なんだったんだろう・・・。


なんだか大切なことを言われたように感じたのです。

その意味は、後に知ることになります。

 

 

 

 後日、あの言葉をもう一度、考えてみました。

 

【芸は身を助ける】はわかる!

 

問題はそのあとです。

 

【不幸せ】とくる。

 

【なぜ??】

 

身を助けられたら幸せなんじゃないの?

時間をかけて考えていた時、私はレギュラー先輩たちを見渡しました。

 なにやら、ステージ終わりの衣装を点検している真っ最中・・・

 

じっーとあの言葉と先輩の後ろ姿を見ていると、 

 

【は!!!!】

 

やっとわかったのです。その言葉の意味が・・・

 

 私よりも長く勤めてきた先輩・・・

いじわるで、大嫌いだけど、間違いなくステージでは素晴らしい舞いを見せ、音楽のプロであり、周りからも認められている先輩・・・

 

 でもその先輩の背中はどこか【寂しそう】なのです。

 先輩は【幸せ】なんだろうか?

 初めて一人の人として考えてみる。

 

 きっと【幸せじゃないんだろうなぁ…】

 

そう感じました。

家族と縁を切り、おまけに恋愛も禁止で自由なんてない世界でずっと生きてきた先輩の背中から真実が見えてきたのです。

 

【私はこんな寂しい背中になりたくない。】

 

大きな衝撃でした。

 

これから先、もし、私もこのままここで音楽を続けていったら、きっと、先輩と同じように孤独や寂しさから嫉妬深くなり、いじわるをしてしまうだろう・・・

 

リアルに未来の自分を想像できたのです。

どれだけ大好きなステージショーで多くの人に喜ばれ生きても、真実は幸せじゃない。

 

不幸せなんだ。

心からそう思いました。

 

 私は大師匠の言葉で決めたのです。

 

 【ここを去ろう。】 と。

 

でも、そうは言っても、現実的にはレギュラーになった以上、簡単には辞めれない。

 

どうしようかと悩んでいる中でもステージ演奏は待ってはくれません。

 

退団を決断した時のこと

 

 そんな矢先に、私の背中を押す出来事がやってきます。

 その日は夏祭り演奏が夜に入っていました。昼間はレギュラーみんなで外食へ。

 

 お昼を食べ終えた頃、いつものように私はウォークマンで、その日のステージ演奏曲を集中して聴いていました。

 私の与えられている今ある【責任】。

ひとまずやることはこなそう。

そんな気持ちで・・・。

 

 

その時です。

 

 

 

また、いつものありもしない私をはめようとする疑いがかけられます。

 内容は本当にくだらないことでした。

 

身に覚えのないことを言われ、いつもなら我慢する私も、もう堪忍袋の尾が切れたように怒りました。

 

師匠、レギュラーみんなに対して『情けない…』そう言ったのです。

 

私の心はもう離れていました。

 

仲間なんかじゃない。

 

ずっと家族だと言われていたけど、これまでのことを振り返っても、この人たちはそんなんじゃない。

 私は大きな声で言いました。

 

『もうこの場で私、辞めます!』

 

そこにいたみんなはビックリしていました。

そりゃそうです。私が初めて見せる怒り。

どんなことをされても、怒りをあらわにすることは無かったのですから・・・。

 

 悶々とした雰囲気の中、ひとまず全員で帰宅。

帰宅後、夜の夏祭りステージに向けての準備が着々と進められますが、私は心に決めていました。

 

 【準備なんかするもんか!私はここを去るんだ】と微動だにせず、部屋にこもっていました。

 

 

 

 

母に電話を入れ、辞める決意を伝えました。

 母は『すぐに向かう』と言ってくれました。

 

全ての演奏準備が整い、出発する目前・・・。

私は師匠の部屋に向かいました。

 

そう、ハッキリとお別れを伝えに。

ノックをし、ドアを開けると、師匠が座っていました。

 

なぜか穏やかそうな表情。

私は『失礼します。』と部屋に入り、正座しました。

 

 『私はここを辞めます。今までお世話になりました。』

 

と床に手をつき、お辞儀をしました。

 

師匠は変わらず、穏やかな表情で、『そうか、わかった』とだけ言ってくれました。

私はそこを立ち去ります。

 

終わったんだ・・・。

 

挨拶のあと、荷物をまとめ、車で迎えにきてくれた母と共にそこを去りました。

入団してから三年、全てをかけてがむしゃらに生きた音楽芸能の世界が幕を閉じたのです。

 

 

 

 

いつもは厳しい師匠がなぜ、公演を目前であったにも関わらず、穏やかに送り出してくれたのか。

今、考えても真実はよくわかりません。

 

 その夜の夏祭りは、主催者から私のサックスをお願いされていたはずなのに・・・。

 

実家に向かう車の中で、母は私に辞めた理由を聞きませんでした。ただ、言ってくれたのは


『お腹空いてない?』


空いていました。ずっと満足に食事をとることなんてなかった生活。

 

私は『空いてる。』と答えました。

帰り道に母と和食店に立ち寄り、カツ丼を夢中で食べたのを覚えています。

 

 

 

本当に本当に美味しくて、こんなにお腹いっぱいにゆっくりご飯を食べたのは本当に久しぶりのことでした。

お腹が満たされると共になんだか心も満たされてゆく・・・。

 

 忘れかけていた実家に到着、自分の部屋に入ると、至るところに風呂敷がかけてあり、綺麗に保たれていた私の部屋。

 

いつでも帰ってこれるようにしてくれていたのです。

嬉しかった。

その夜は何年ぶりだろう・・・。 

ベッドで大の字になって寝ました。


私のベッドだ。

 

3年間、ずっとソファーでしか寝てなかった日々。

戦場から帰ったかのように、疲れた心と身体の力が抜けました。

     

 あとから聞いた話ですが、その晩、妹が私の部屋まで様子を見に来てくれたそうです。

 『お姉ちゃん、お花畑に包まれたみたいに寝てたで。なんか、別空間やった(笑)』と。

 

癒されてゆく私の身体・・・。

 

【帰ってきたんだ。】

 

喜びも悔しさも悲しみも全部一生分生きたと言える怒濤の日々はこうして終わったのです。

 

     

🌺挫折から得た3つのこと

 

①小さなことに幸せを感じられるようになった

音楽芸能界に入るまでは、私は普通の家庭で育ち、のんびり自由に生きていたと思います。

したいことをして、行きたいところに行って、食べたいものを食べて…🍰✨

 

けれど、厳しい音楽芸能生活ではそのすべてができませんでした。

退団して家に戻り、普通の生活を送るようになってから、私は一つ一つが満たされていることに気づいたのです。

 

例えば、自分の部屋で眠れること🛏

食べたい時に食べたいものを食べられること🍜

いつでもお風呂に入れること🛁

 

――それらはすべて「自由な環境」で生きている証。

小さなこと一つ一つが恵まれていて、幸せだなぁと感じられるようになったのです。

 

そして、どんな選択も自分でできる。自分で選んで歩めることに、大きな喜びを感じました🌷

 

②打たれ強くなった

 

 

退団してから新たな人生を歩んでいますが、人生は本当に山あり谷あり⛰️

嬉しいことや楽しいことだけでなく、悲しいことや辛いこともやってきます。

 

でも、どん底を経験した私は「その時に比べたら大丈夫!」「あの経験を乗り越えた私なら、きっと大丈夫!」と思えるようになりました。

 

過去の経験が私を強くしてくれたからこそ、今があります。

やっぱり、経験は財産ですね😊

 

③笑顔で生きようと決められた

 

 

これが、私にとって一番大きな気づきです。

 

一度は心を失い、どん底にいた私。

でもその時、私は「生きる」という選択をしました。

 

どんなに辛くても悲しくても、究極の選択をするなら【生きる】。

それを知っているからこそ、私はこう思えるようになりました。

 

「山あり谷ありの人生を、笑顔で生きよう」😊🌈

 

一日一日をできるだけ笑顔で感じながら生きたい。

そう思えるようになったことが、私にとっての宝物です✨

 

 

 

🌺最後に

楽団への想い

【今、あの頃のことを振り返って】

 

壮絶で過酷な環境の中、指にタコができるまで楽器を握りしめ、汗と涙にまみれた日々⋯。私が生きた音楽芸能の世界には、譜面というものは一切、存在しませんでした。

 

「見取り稽古」――ただそれだけ。

 

師匠や先輩の指先を必死に食らいつくように見て、耳で聴き、心で刻み込む。

ノートに書き留めることすら許されず、ただ全身を使って、覚え込むしかなかったのです。

 

不思議なことに、一度、聴いた曲は頭の中に鮮明に響き、指先が勝手にその旋律を覚えていました。

今、思えば、あれはきっと音楽の神様が私を見守り、そっと助けて下さっていたのだと思います。

 

お腹が空いたことも言えない、自由に買い物も許されない、外出もできない⋯

まるで籠の鳥のような生活。
 

振り返れば、何かの宗教なのでは?と思われるような、閉ざされた特殊な環境だったと感じます。

そんな中でも⋯

 

私は、あの一座の音楽が心から大好きでした。


愛していたと言ってもよいかもしれません。そこで生み出される音楽は素晴らしいと、今も変わらず思えるのです。

振り返ると、胸がぎゅっと締めつけられるほど辛く厳しい世界でしたが、あの一座に勝る音楽集団は存在しないと、今も断言できます。

ステージで生まれる音楽は、人の心の奥底を震わせ、涙を誘い、魂を揺さぶる唯一無二、一流の舞台だったといえます。

 

退団してから、月日が流れました。私はいくつもの道を通り抜け、新しい人生を生きています。

今、静かにあの頃を思い返すと、胸に浮かぶのは、ただひとつ⋯

 

「感謝」という言葉。

 

人生をかけるほど心の底から大好きなものに出逢わせてもらいました。

そして、世間知らずだった私に、光と闇の両方を教えてくれました。
 

「必死に生きる」ということは何なのか?を体の芯から体験させてくれた日々。
あれがあったからこそ、今の私があるのだと、深く思うのです。

 

時折、ふとこんなことを考えることがあります。

 

「あの頃のことは、もしかしたら夢だったのではないか?」と。


なぜなら、あの世界は徹底して撮影禁止。携帯も、ビデオも許されませんでした。

唯一、残されたのは、母が団から、撮影した写真を団に提供するという理由で、特別許可を得て、デジカメで撮られた数枚の写真だけ。(このサイトに載せている写真が全てです)

 

もし、魔法で夢が叶うなら、ステージに立って演奏している自分の姿を自分で見ることができたら⋯

客席からはどんな風に見えていたんだろう⋯そんな風に思ったりもします。

だから、自分がそこに生きていた証、その演奏は心の記憶にしか残っていないのです。

 

 

 

過去をオープンにする理由

愛用した楽器は今も襖の奥に。
愛用した楽器は今も襖の奥に。

 

壮絶な音楽芸能界を体験してから、時は流れました。正直に言えば、この話を公開することには勇気がいりました💦

オーラアーティストとして活動している今、過去の私の話をすることに意味があるのか…?それでもこうしてオープンにしたのは「知ってほしい」と思ったから。

 

あの挫折があったからこそ、今の私がいて、エッセーを書いたりオーラを描いたりできているのだと思います。

 

 

これから挑戦するあなたへ

そして、最後に。

 

私は心からもし今、あなたが新しいことに挑戦しようとしているなら…🌱 

私は心から伝えたいです。

 

「恐れないでやってごらん」

「飛び込んでごらん」

 

「夢を生きてみて」

 

もしも、あの頃の私が今の私を見たなら⋯何と言ってくれるだろう、と。

きっと、強く、優しいまなざしで、こう告げてくれる気がするのです。

「あなたの選んだ道は、正解だったよ」と。。。

     

 

すべての経験は、今をつくる大切な宝物──

 

 

 

そう心から思います。

 

その先に何が待っているかは分からないけれど、すべての経験には必ず意味があります。

無駄なことなんて、ひとつもありません💎✨

 

だからこそ、私はこれからも人生をかけて、そういうメッセージを伝えていく人でありたいと思っています🌈

 

最後に、ここまで読んでくださって本当にありがとうございました💖

この記事が、少しでもあなたの心に光を届けられたなら嬉しいです。

 

愛をこめて…🌷✨

 

 

 

Aura Artist YucoN

 

 

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コメント: 2
  • #1

    tatu (火曜日, 08 10月 2019 19:33)

    笑顔が素敵です。
    応援してます。がんばってください。

  • #2

    Aura Artist YucoN (水曜日, 09 10月 2019 09:12)

    tatuさんへ

    コメントありがとうございます(*^^*)笑顔が素敵と言って下さって嬉しいです。笑顔が幸せを呼ぶと信じ、これからも大切にしながら、活躍させて頂こうと思います✾tatuさんの人生も愛満ち溢れることを祈っています‥‥